アート・インタラクティヴ東京 連続レクチャー第10回  過去の贋作事件について

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                                   2007.1.26
過去の贋作事件について
                                   小野公久
▼永仁の壷事件関連メモ
《参考資料》松井覚進著『偽作の顛末 永仁の壷』1990年、朝日新聞社刊
▽永仁の壷1号
日本考古学会誌『考古学雑誌』1943年7月号に昭和18(1943)年2月に愛知県東春日井郡志段見村白鳥出土の「永仁二年銘瀬戸瓶子」として紹介される。高27.6p。永仁2年は1294年。刻銘は「奉施人 百山妙理大権現 御寶前 尾州山田郡御厨 水埜四郎政春 永仁甲午年十一月 日」。1943年1月7日付、中部日本新聞の尾張版に、道路改修工事中に出土し、「室町時代の貴重な品」であるとの、志段見村長で郷土史家の長谷川佳隆の談話掲載。
1946年末に加藤唐九郎から日本陶磁協会理事の佐藤進三を経由して、戦前の政友会代議士田辺七六に5万円(当時の金で220万円相当)で売られた。1950年6月26日に日本陶磁協会が主催して東京美術倶楽部で開いた古瀬戸展に2号とともに出品されたのを最後に行方不明に。田辺もしくはその遺族が、古美術商に売却したのは確かである。1966年に名古屋市のオリエンタル中村(現在の名古屋三越)で開かれた真贋展に偽物として展示。
▽永仁の壷2号
銘文が1号と3箇所で異なる。「百山」が「白山」、「水埜四郎政春」が「水埜政春」、「永仁甲午年十一月 日」の「年」が欠落。1947年ごろ、加藤唐九郎が日本陶磁協会理事の佐藤進三の元に「発掘者の長谷川が急に金がいるので、売ってくれと頼まれた」と持ち込み、佐藤から米子市の活性炭販売会社社長、深田雄一郎(のちに日本陶磁協会米子支部長)に7万円(当時の金で350万円相当)で売られた。唐九郎は深田の求めに応じて「永仁銘 黄瀬戸 瓶子 唐九郎誌」と箱書き。偽物騒ぎの最中の1960年夏ごろ、日本電話施設社長の本多静雄と丸栄社長の川崎音三らが、150万円で深田から買い取り、パリで唐九郎が自作と発表した直後に丸栄百貨店で展示して話題を集めた。川崎の死後、本多が引き取り、1987年に唐九郎宅にある翠松園陶芸記念館へ寄贈された。

▽1948年12月、小山冨士夫が2点の重要美術品指定を国立博物館に申請。
調査委員の大場磐雄(考古学)、田沢金吾(工芸・考古学)、香取秀真(芸術院会員・金工)は、銘文の干支年号「甲午」が斜め書きなのはおかしいと疑義を提示。小山は提案を撤回。
▽1954年4月、加藤唐九郎編『陶器辞典』(陶器辞典刊行会)に永仁の壷1号を原色図版で紹介。所蔵者は2号の深田雄一郎とある。
▽1957年に河出書房から刊行された『世界陶磁全集2』に永仁の壷1号の写真が掲載され、翌年4月、日本橋・高島屋での日本陶磁名品展では2号が展示された。
▽小山冨士夫は1959年3月、永仁の壷2号を国の重要文化財に指定するよう文化財専門審議会に提案。15分の審議で決まり、6月27日に官報に掲載される。
▽1959年11月14日から19日まで、名古屋市の丸栄百貨店で開かれた火と土の芸術展に、重文に指定されたばかりの永仁の壷2号が展示される。ところがそれまで写真で紹介されていたのは1号で、2号には「水埜四郎政春」の「四郎」の2文字が欠落してたことなどから、瀬戸市の古陶磁研究家菊田清年らが疑問を抱く。このころ瀬戸氏の郷土史学研究会主宰者の滝本知二も地元紙に、贋作説を発表していた。
▽1960年2月19日、小山は菊田が勤務する瀬戸市の山磯陶土製造所で滝本や菊田らと面談。類似の陶片が出土したとされる松留窯の存在や、永仁の壷の志段見村からの出土自体も疑わしいと告げられる。
▽読売新聞はこれを受けて1960年2月20日付東京本社版で「ニセモノの疑い深まる」と報道。小山は「確かに疑わしい点が多いので、関係者にさらにくわしく事情を聞く。ニセモノであることがはっきりしたら重要文化財指定を取り消すことはもちろんだが、私は辞職するつもりでいる」とコメント。
▽毎日新聞は1960年8月24日、唐九郎の長男嶺男の「永仁のツボは私が作った」とする記事を掲載。それによると習作として1938年ごろ作ったが、銘文は入れておらず、父のところに置いて出征(1940-47)したので、その後の経緯は知らない、との内容。
▽唐九郎はマスコミの追求を逃れるためか、5月5日に日本を脱出してパリに滞在。朝日新聞のパリ支局長だった小島亮一は、カルチェラタンのアトリエで旧知の唐九郎にインタビューし、1960年9月25日付で「永仁のツボ 作者はボク」と報道した。それによると永仁の壷は、1937年夏に名古屋新聞の営業部員だった刑部金之助に頼まれて製作。日本の山岳信仰である加賀、越前、美濃の三つの白山と、朝鮮半島と満州とモンゴルの大陸の山岳信仰と結んで民心を安定させようとの軍の意向を受けての注文だったという。嶺男は作るのは手伝っておらず、カマの手伝いだけ。ウソが言える人間ではないので、誰かに言わされているのでは、などと唐九郎談。
▽1960年10月15日、嶺男との対談を計画した中部日本新聞社の世話で唐九郎帰国。翌日の対談を受けて「永仁のツボは私が作る」「息子の作風生かして」の記事。
▽1960年10月中旬に文化財保護委員会が、17人から成る古瀬戸調査班を組織。全国から瀬戸系古陶磁や松留窯とされる作品や破片を集める。その数、完品91点、破片が148片。
これらを東京国立博物館から昭島市の理学電機鰹コ島工場に運んで蛍光X線分析にかけ、東京国立文化財研究所保存科学部の江本義理技官が構成元素の種類と含有量を探った結果、疑いのない古瀬戸と永仁の壺や松留窯陶片では、釉薬の原料となる木灰や長石の種類が異なると分かった。《三浦定俊・東京国立文化財研究所保存科学部長「永仁の壺の材質鑑定」、東京理科大学刊Sut Bulletin 2000.1 「特集 古文化財の分析」に収録》
▽1961年3月31日、文化財保護委員会は永仁の壺、黄釉蓮華唐草文四耳壺(東京国立博物館蔵、1953年指定)と個人蔵の狛犬一対(同1955年)の3件を重文指定解除(官報告示は4月10日)。他に疑わしいとされた重要美術品も幾つかあったが、これらはいつの間にか不問に。
▽1961年7月、小山は文化財保護委員会を辞職。
▼奈良国立博物館で展示されたガンダーラ仏をめぐる真贋論争についてのメモ
《参考資料》当時の新聞記事、『文芸春秋』1988年4月号掲載の「醜聞・ガンダーラ贋菩薩」(田辺勝美・古代オリエント博物館研究部長)、同5月号掲載「中島文部大臣への公開質問状」(亀廣市右ヱ門・亀廣記念医学会理事長・精神科医)など
▽石造弥勒菩薩立像 総高166.2p。片岩製。奈良博は、パキスタン北部ミンゴーラ出土と伝えられる、2世紀、インド・クシャーナ朝時代の作と主張

▽1985年11月13日〜1986年1月5日、米国・クリーヴランド美術館、2月13日〜4月6日、ニューヨークで開催されたクシャーン彫刻展に展示。所有者はニューヨークの古美術商ウィリアム・H・ウォルフ
▽1987年1月13日、奈良国立博物館の学芸員が大阪・枚方市の医療法人亀廣記念医学会の亀廣市右ヱ門理事長に、奈良博の特別展「菩薩」に展示するために、石造弥勒菩薩立像を買ってくれないかと要請《『文芸春秋』5月号》
▽1987年2月2日、亀廣記念医学会理事会は購入を決定。価格は37万5千USドル。約5800万円。医学会は同月末に3分の1に当たる12万5千ドルをウォルフに払い込む《同》
▽1987年4月29日〜5月31日、奈良博の特別展「菩薩」に展示
▽1987年5月2日、毎日新聞が「奈良国立博物館特別展の目玉 ガンダーラ仏に偽物説」と、約10年前に作られたとの田辺勝美・古代オリエント博物館研究部長の贋作説を報道
▽1987年7月3日、奈良博で研究者7人を交えた研究協議会(座長は樋口隆康・京大名誉教授)開催。田辺部長が@全身に金箔が残るガンダーラ仏の出土例はないA台座に施された煉瓦積みのレリーフは図像学、建築史学的にあり得ないB宝冠の三日月と五角の星は現代パキスタンの国旗に意匠、などと贋作説を主張したのに対して、西川杏太郎・奈良博館長は@は後の時代のものAは出土例がある、様式論から言うと紛れもない本物などと反論。4時間の論争でも決着がつかなかった。
▽1987年8月25日、亀廣記念医学会は仏像の正当な価格は半額であるとして、ウォルフに残金7万ドルを払い込む
▽1987年12月21日、医学会と田辺部長は千葉県市原市の非破壊検査会社でX線撮影。翌22日には像の頭頂部など10数箇所にドリルで直径3-5pの穴を開けて石材をサンプリング。24日に記者会見して@頭部は首の部分で、左手は手首部分で、接着されているA首飾りや衣などは石の練り物で作られている、などをあげて贋物と主張。奈良博側は、館によるX線撮影では首の接合面は写っておらず、練り物があったとしても、後世の補修と考えられるなどと反論
▽1988年2月27日、医学会は記者会見で、ウォルフから残金18万ドルの支払いを求められているが、価値相当額はすでに支払っており、所有権は医学会にある。トラブルの責任は購入を仲介した奈良博にある、と主張。
▽1988年3月9日、衆院予算委員会での公明党議員の質問に、文化庁の横瀬庄次次長は奈良博館員の仲介を否定。真贋についても、協議会で贋作ではないとの結論が出ていると答弁。中島源太郎文相も、文化庁が本物と言うから、間違いないと述べる
▽1988年3月14日、医学会は「奈良博学芸員の依頼で仏像を購入したのに、贋物だった」として、国家賠償法に基づいて奈良博を相手どって5100万円の損害賠償を求めて大阪地裁に提訴。
▽1992年2月10日、大阪地裁は「学芸員が購入を依頼したとは認められず、博物館側に違法な職務行為はなかった」として請求を棄却。海保寛裁判長は、「博物館には像を購入する予算があったので、学芸員が購入を依頼するとは考えられない。職務権限がない以上、仏像の真贋や、偽物だった場合の国の賠償責任は検討する必要がない」と述べた。二審の大阪高裁も同様の判断で、1996年11月26日に最高裁第三小法廷の上告棄却で判決が確定

▼その他の代表的な贋作事件
▽佐野乾山 1962年
《参考資料》青柳いづみこ『青柳瑞穂の生涯』2006年、平凡社ライブラリー594、『芸術新潮』1991年11月号収録「特集 贋作」、『近現代ニセモノ年代記』2005年、光芸出版
▽三越の古代ペルシャ秘宝展 1982年
《参考資料》七尾和晃『銀座の怪人』2006年、講談社

▼科学的鑑定法について
《参考資料》平尾良光・山岸良二『文化財を探る科学の眼1-3』1998年、国土社
▽蛍光X線分析法 1960年代にスタート
試料にX線を照射すると、試料に含まれる元素によって異なる波長の蛍光X線が出る。その波長で含有元素の種類が、強度から含有量が分かる。黒曜石の産地の特定、例えば長野県・和田峠産、伊豆七島・神津島産などを区別。各地で出土する翡翠の多くが糸魚川産と特定できたのも、この分析法による。試料を破壊せずに15分で結果が出せる。
▽放射化分析法 コンピューターによる自動分析で1970年代から実用化
原子炉内で試料に中性子を照射すると、試料の原子核は不安定な状態となってγ(ガンマ)線などの放射線が放出される。そのエネルギーを観測することで、どの元素の原子核であるかを特定できる。つまりγ線の束をスペクトロメーターでエネルギー別に分けて観測することによって、構成する元素の組成が明らかになる。須恵器の粘土組成を解明し、産地と特定するのに用いられた。古九谷磁器が有田の胎土と結論付けたのも、この分析。
▽熱ルミネッセンス年代測定法 1963年、広島の原爆瓦の研究から発展。オックスフォード大学で改良され、実用化。数十年前から50万年前までの、絶対年代が得られる
試料に含まれる石英などの鉱物に熱を加え、放射される光の強さから、作られてから鉱物内に蓄積された自然放射線の量を測定。それを出土地点の年間放射線量で割って、年代を割り出す。火山灰などの噴出時期や陶磁器の製作年代を知るのに用いられる。