アート・インタラクティヴ東京 連続作家紹介第18回 佐藤紫寿代展 トップへ

物質を無底にする美の根底 

二科会の桂ゆきや自由美術家協会の長谷川三郎等、1930年代に先駆的な作品の創出が行われているとしても、日本に於いて、それまでの日本画の画材と西洋で使われている油絵のそれ、彫塑の材料以外の物質を用いて作品を制作するようになったのは、敗戦以後の所謂「戦後前衛美術」に起源を求めることに異論はないであろう。現在、様々な近代美術館に所蔵され常設でも見ることができる「戦後前衛美術」の一連の作品は、「美術史」が持つ歴史観により統一感を与えられているが、当時の作家の素材に対する探究に妥協は一切なかった。70年代の自然物に手を加えず作品とする〈もの派〉、80年代の日比野克彦によるダンボール作品が表出する〈イラストレーションと支持体の関係〉、90年代の村上隆と椹木野衣が仕掛けた〈日本画の再考〉、そして2000年代の主流は映像とコンピュータが握ったが、日本ではそのテクスチャーを重視する作品が目立つといった、姿や形は変えながらも素材の「物質感」に対する追求に変化
は訪れていない。

佐藤紫寿代が創り出す一連の作品群も、この系列に属すると解釈することができる。自らの髪毛を用いてイメージとしての蝶を制作するという、一般的な見解に従えば清楚な印象を与えることもあるが、自らの身体/髪/爪/噛んだガム等の痕跡、果ては掃除機が吸い込んだゴミを分別して展示するという、フェティッシュで醜悪な素材を持ち込む場面もある。しかし佐藤のコンセプトに揺らぎはなく、現在は身体が捨て去った素材を用いているが、その根底には「概念」的で新たな"境界線"を生み出そうとする意識が躍動している。

身体を根拠とする作品は「概念」を中心に据える方法、皮膚や内臓が延長していく「感覚」、実際の筋肉が躍動して創り上げていく「過程」という三種の流れがある。これまでの美術史で生まれた作品には女性性のエロティシズム、生命活動の生成感、物質への対抗という既存の「概念」が盛り込まれる場面が多々ある。素材との対話を粗雑に行なうと、技巧的な側面が一人歩きしてしまったり、物質感を強調するがため素材が剥き出しになってしまったりする。佐藤の場合は"境界線"の意識があるので素材という底の無い物質を徹底的に客観視し人工物との区別をなくす、即ち〈死〉を予感させるまでの意識が内在し、自らが根底とする美意識を作品に確実に注ぎ込んでいく。物質の探究には美意識が欠かせない。それを、佐藤の作品は思い出させてくれる。

宮田徹也 (日本近代美術思想史研究)