つくらないでつくる [対談] 東野芳明+三沢憲司
もうひとつの自然
東野 あなた自身には、たとえば世の中との結びつきとかに超然として作品をつくってい
くという意味でのパーソナルなアーティストではありたくない、というのが最初からあっ
たみたいな感じがするんですけどね。
三沢 そうなんですよ。ぼくは純粋美術だけがアートだとは思っていないところがありま
してね。ここ7、8年、環境や庭というオ−プンスペースの中でイメージを具現化してきた
ものだから、現在もいわき市現代美術館の前庭を、約35トンの石を27メートル×6メー
トルの中で、新しい彫刻庭として制作しているんです。そしたら最近むやみに、オープン
スペースという意識にとらわれない自分の仕事をしたくなったんです。
東野 今度の作品で、自然の石に対して人工的なアルミとか金属が入っているというのは、
わりとそういう反作用が強いわけなの。言ってみれば、庭園という場にとらわれるのがい
やになって、アーティストのゆりもどしが来たわけね。それなら面白い。
三沢 ほんとにそうなりますね、不思議なもので。自分ではこうなるとは考えてもみなか
った。
東野 一般的通念の「作品」という観点からすれば、作品以前という感じもするね。
三沢 それは三越(日本橋)の個展(1978年)に斎藤義重先生が来た時に、なるべくつく
らないでつくるのがいい、という話が出たんですよ。出来るだけ全体をいじらないで、1%
か2%の一部に手を加えることによってそれが成り立てばそのほうがいい、と言うんです。
最小限につくって最大限の効果を生みだすというのは、斎藤先生の考え方との共通点かも
知れないですね。
東野 それは斎藤さんの影響が相当強い。
三沢 そういうところはビックリするほど強いですね。
東野 前衛禅みたいなところがありますね。
三沢 禅ですよね。それが非常に気になっててやったようなところがあるんですよね。だ
から今回の仕事も、石に金属をたまたま置いたというだけで仕上げたいわけです。その形
態はぼくがわざわざ切ったっんじゃないんですね。石屋へ行ったら割れた残りがころがっ
ていたとか。海へ行ったら波に洗われた石が落ちていたとか。
東野 造形的に考えて切ったりはしていないわけね。
三沢 金属を埋めるためにちょっと削ったりはしていますけどね。
東野 割れたままでとげとげしい石に金属という異質なものがあることで、自然から突出
した部分というか異物感を増幅している面白さがあるよね。つまり自然に馴化してそれ自
体になる前のとげとげしい表情を増幅するために金属を埋め込んでいる、という感じをぼ
くは持ちますよね。

生活感のあるアート
東野 伊豆の海岸のほうに仕事場を持ったのはいつ頃からですか。
三沢 今から7、8年前ですね。知人から土地を借りて、自分たちでプレハブを建てたん
です。1200坪ありますから、制作場所としてはもって来いでね。後が山で前が海と。邪魔
するものは何もないと。そういうところから自然観が内在した作品になったと思うんです
よね。日常の行為そのものが行者的というか、山のものや海のものをとって来て食べたり
していると、すごく感性が研ぎすまされてナチュラルになるわけです。すると仕事をする
時にスッと入れるんですよね。石とか金属に。だからぼくの仕事は生活感が強いですね。
特に今の現代美術には生活感があまりないけど。ぼくのは日常生活の中から自然に生まれ
るというか、どんどん出来ちゃうんですよね。
東野 どんどん出来ちゃうというのは、作品というよりデッサンというかね。そのデッサ
ンが好きで仕方がないという感じもあるね。と言ってぼくは別に作品至上主義じゃないけ
ど。
三沢 だからそのへんで、一点で見せるということに抵抗があるんですよ。何十個もある
と一つの効果を生むわけです。オーケストラみたいに。いろんな楽器が並んで一つの音が
出るように。
東野 効果というより、各々がつながり合っちゃうからね。
三沢 つくる時は1個1個だけれども。出来た最後の結論としては、見る人が自分の眼で
時間を追ってイメージを豊かにしていくというかな。
一つはなるべく無造作にゴロゴロさせることです。
東野 本のごとくってのは面白いね。
三沢 個性のないようにね。なるべく際立たないように。
東野 ミロがマジョルカの海岸でいろんな石や枝とかを並べたね。彼の場合はあくまでシ
ュルレアリスティックないメメージが先行しているから。そこがあなたとガラッと違うん
だけと、なんか共通した楽しさがありそうね。

手をそらす、まなざしをそらす
三沢 先日斎藤先生のアトリエに伺った時に、職人とアーティストの違いにたいな話が出
ましてね。たとえば木の箱を作るのに職人がクギを打つでしょう。それはもちろんキチッ
と全部打てますよね。アーティストがtまたま間違えると横に出ちゃうんですよ。
東野 ぼくなんか最初から間違って打っちゃう(笑)。
三沢 横に出たクギみたいなものがアーティストになることだと思うんですよ。で、アー
ティストになるということは、うまく横にクギを打てるようになることだと思うんですよ。
非常にうまくね。
東野 いかにへたかに見せながら。
三沢 そうそう。それは絶対に職人には出来ないわけですね。だから石を拾う行為にして
も、職人が拾うのとアーティストが明確な意志を持って拾うのとでは全然違いますよ。も
ちろんアートは偶然から始まるんだけど、拾ったものか拾わないものか、つくったものか
偶然できたものか。そういうところが一番、最近興味あるところです。
東野 なるほどね。それとちょっと関係あるかどうかだけど、デュシャンの「大ガラス」
の中に「射撃の跡」というのがあって九つの穴があいてるわけですよね。それはメモによ
ると、これはまさに職人というか射撃の名手ならば常に一点に弾がいくはずだと。しかし
その不器用さのせいで九つに散ったというわけね。その不器用さがアートっていうかな。
で、ジャスパー・ジョーンズが直接そのメモを読んでつくったとは思わないけど、「標的」
を描きましたね。すると誰でも視線が真中にいく。で、当然その真中に当てるべきなんだ
けど、彼は回りを赤く塗ったから視線が全部赤にいっちゃうのね。それでポロック以来の
“オールオーバー・ペインティング”という焦点がない、あらゆるところが焦点の、見る
ことが集中しないで拡散する画面を非常に意識して計算してつくったわけですね。
それもやはり見ること自身が非常に専門化して名人になると、真中しか見ないですよ。い
かに集中して見つくすかというね。それを彼は逆に視線を拡散させるということで、職人
の視線というか今までの美術の目ききに対して、あてどない視線をつくるというか、さっ
きのはみ出たクギと同じような視線を見る側に要求しているわけね。
「射撃の跡」と「標的」をつなげるのはぼくの勝手なレトリックなんだけど、手がそれる
とかまなざしがそれることの素晴らしさ、つまり自然さだよね。
三沢 そういうところがぼくのめざすアートみたいな感じがしますね。
東野 だから、不器用になる難しさがあるよね。
三沢 それが出来たらアーティストとして一人前でね。
『彫刻―三沢憲司の世界』毎日新聞社 1984年11月15日