生活感のあるアート
東野 伊豆の海岸のほうに仕事場を持ったのはいつ頃からですか。
三沢 今から7、8年前ですね。知人から土地を借りて、自分たちでプレハブを建てたん
です。1200坪ありますから、制作場所としてはもって来いでね。後が山で前が海と。邪魔
するものは何もないと。そういうところから自然観が内在した作品になったと思うんです
よね。日常の行為そのものが行者的というか、山のものや海のものをとって来て食べたり
していると、すごく感性が研ぎすまされてナチュラルになるわけです。すると仕事をする
時にスッと入れるんですよね。石とか金属に。だからぼくの仕事は生活感が強いですね。
特に今の現代美術には生活感があまりないけど。ぼくのは日常生活の中から自然に生まれ
るというか、どんどん出来ちゃうんですよね。
東野 どんどん出来ちゃうというのは、作品というよりデッサンというかね。そのデッサ
ンが好きで仕方がないという感じもあるね。と言ってぼくは別に作品至上主義じゃないけ
ど。
三沢 だからそのへんで、一点で見せるということに抵抗があるんですよ。何十個もある
と一つの効果を生むわけです。オーケストラみたいに。いろんな楽器が並んで一つの音が
出るように。
東野 効果というより、各々がつながり合っちゃうからね。
三沢 つくる時は1個1個だけれども。出来た最後の結論としては、見る人が自分の眼で
時間を追ってイメージを豊かにしていくというかな。
一つはなるべく無造作にゴロゴロさせることです。
東野 本のごとくってのは面白いね。
三沢 個性のないようにね。なるべく際立たないように。
東野 ミロがマジョルカの海岸でいろんな石や枝とかを並べたね。彼の場合はあくまでシ
ュルレアリスティックないメメージが先行しているから。そこがあなたとガラッと違うん
だけと、なんか共通した楽しさがありそうね。
手をそらす、まなざしをそらす
三沢 先日斎藤先生のアトリエに伺った時に、職人とアーティストの違いにたいな話が出
ましてね。たとえば木の箱を作るのに職人がクギを打つでしょう。それはもちろんキチッ
と全部打てますよね。アーティストがtまたま間違えると横に出ちゃうんですよ。
東野 ぼくなんか最初から間違って打っちゃう(笑)。
三沢 横に出たクギみたいなものがアーティストになることだと思うんですよ。で、アー
ティストになるということは、うまく横にクギを打てるようになることだと思うんですよ。
非常にうまくね。
東野 いかにへたかに見せながら。
三沢 そうそう。それは絶対に職人には出来ないわけですね。だから石を拾う行為にして
も、職人が拾うのとアーティストが明確な意志を持って拾うのとでは全然違いますよ。も
ちろんアートは偶然から始まるんだけど、拾ったものか拾わないものか、つくったものか
偶然できたものか。そういうところが一番、最近興味あるところです。
東野 なるほどね。それとちょっと関係あるかどうかだけど、デュシャンの「大ガラス」
の中に「射撃の跡」というのがあって九つの穴があいてるわけですよね。それはメモによ
ると、これはまさに職人というか射撃の名手ならば常に一点に弾がいくはずだと。しかし
その不器用さのせいで九つに散ったというわけね。その不器用さがアートっていうかな。
で、ジャスパー・ジョーンズが直接そのメモを読んでつくったとは思わないけど、「標的」
を描きましたね。すると誰でも視線が真中にいく。で、当然その真中に当てるべきなんだ
けど、彼は回りを赤く塗ったから視線が全部赤にいっちゃうのね。それでポロック以来の
“オールオーバー・ペインティング”という焦点がない、あらゆるところが焦点の、見る
ことが集中しないで拡散する画面を非常に意識して計算してつくったわけですね。
それもやはり見ること自身が非常に専門化して名人になると、真中しか見ないですよ。い
かに集中して見つくすかというね。それを彼は逆に視線を拡散させるということで、職人
の視線というか今までの美術の目ききに対して、あてどない視線をつくるというか、さっ
きのはみ出たクギと同じような視線を見る側に要求しているわけね。
「射撃の跡」と「標的」をつなげるのはぼくの勝手なレトリックなんだけど、手がそれる
とかまなざしがそれることの素晴らしさ、つまり自然さだよね。
三沢 そういうところがぼくのめざすアートみたいな感じがしますね。
東野 だから、不器用になる難しさがあるよね。
三沢 それが出来たらアーティストとして一人前でね。
『彫刻―三沢憲司の世界』毎日新聞社 1984年11月15日