三沢憲司の仕事 たにあらた
三沢憲司の仕事は、たいへんフレキシブルである。そして、その自由さの由来は、おそら
くふたつの局面からやってくる。
ひとつは、彫刻作品がある意味では本来的に担っている外的空間性(あるいは環境)にも
とづくものであり、もうひとつは、三沢の作品固有の質としての内在化されているもので
ある。
かつて、わたしは三沢の作品をふたつの軸からみていた。そのひとつは、ここでいう前者
の環境であり、他は作品固有の質としての意表性である。たとえば75年当時の、日本橋三
越での個展で、庭園をモチーフにしたような作品であれば、これは明らかに環境性、すな
わち、庭園という一定のフィールドを介在させて、より作品が活きるような場合をいう。
もちろん、こうした作品も、それぞれの固有の造形性をもってはじめて、フィールドと緊
密な関係を成りたたせることができるが、あきらかに意表性にもとづくとみられる作品、
たとえば石を布地にみたてるような作品や、垂直に突っ立ったチェーンのような作品と比
較すれば、その違いは明らかだろう。
これらは同一の三沢の造形理念から発するのにもかかわらず、互いにあい和し、しりぞけ
つつ、作品個々の特性となって現象している。
だが、このいわば二律背反の性格は、いずれの方向を強くしようとも、どこかで予定調和
的だったのである。つまり環境においては環境につつまれることが、意表においては三沢
のコンセプトにつつまれることが、作品の根ざすベースのように感じられることがままあ
あった。
しかし、近作においてはこの関係が断絶する。作品は作家のコンセプトに包含されつくし
てしまうものでも、あるいは、環境に包み込まれてしまうものでもなく、作品として厳然
と存在するという形式を得ている。何らかの関係律のメディウムとして、作品がゆさぶら
れるのではなく、作品の存在が前提であり、関係律はその余白に形成されていくという逆
の方向をみることができよう。
たしかに今日の作品でも、フィールドワークとしてまとまりのある作品があるが、それは
余韻の空気をつくるというよりは、ステディな感覚で、むしろ造形空間たりえようとして
いる。
そして、この機能は単一の物体によるものではなく、自然石や御影石に、鉄やステンレス
鏡面、アルミニウムなど、主として石と金属といった性質の異なる異種混合(ハイブリッ
ド)という物質のとりあわせによって生まれてきている。つまり、これが今日のステージ
である。
このことは物質の肌理や性質にかまけ、あるいはコンセプトにかまけるのではなく、異種
どおしを、本体と着衣のようにかまけさせることによって、作品の存在としての強さを倍
加させたことを意味している。そして、この着衣は意匠的でありながら、一方で意匠の性
質を超えて、本体と強引に和合している。(美術評論家)
『彫刻―三沢憲司の世界』毎日新聞社 1984年11月15日