そこに自分がいた、記憶 彫刻家三澤憲司
愛らしい金色のウサギが、雪解けの水たまりに前脚を突いている。水底をけって渡る瞬
間の光景だろうか。後ろから銀色のウサギが続こうとしている。横からも、別の金色のウ
サギが水たまり越えにも挑もうとしている―。
上水内郡信州新町生まれの三澤憲司氏が近年、「雪」をテーマに手がけている連作の一
部だ。同町美術館で三十一日まで開催中の個展「故郷の恵み・なごり雪」で、この連作を
見ることができる。
「雪をテーマに選んだ根底には、もちろん故郷での雪の体験があるね。そこに自分がい
た、という記憶を造形したかったんだな。犬が、あちこちの電信柱に小便を垂れながら自
分の存在を記録していくのと同じで。こういう本能は、芸術家にとって非常に重要な創造
の源なんだ」
「故郷の空気は、やっぱり違うよね。何しろ母の胎内から出て初めて呼吸したのは、こ
この空気なんだから。故郷の空気に触れると、体がにこにこ笑う感じがする。大人になっ
ても、いつまでも、こういう感じに敏感であり続けるのが、芸術家というものじゃないか
と思うね」
作品の愛らしさに似ず、豪放な口ぶり。やや下品なたとえも飛び出すが、何を語っても
「芸術家とは何か」に行き着いてしまう。三澤氏は野趣あふれる哲人だ。
大学を卒業した後、彫刻コンクールで勝ち取った賞金を元手に、ユーラシア横断一年間
の旅に出た。訪れた国・地域はタイ、インド、トルコ、イタリア、スイスなど二十余。古
代以来、多様な民族が残してきた建築、彫刻など数々の文明遺産を見て歩き、感動と衝撃
を覚えた。
「僕らは古代人よりも進歩したと思い込んでいるけど、退歩しているね。例えば縄文人
は文明を長続きさせる技術をもっていたし、実際に長続きした。でも現代の文明は、多く
の人々が長続きしないと予感している。こんな不安が覆った文明は、かつてなかったと思
う」
「不安の原因は、社会の速度にある」という。鉄道や自動車、飛行機の速度、生産と消
費の速度…。確かに、私たちの身辺は加速する一方だ。「このままだと失速、消滅する。
雪が解けて消えてしまうようにね。僕にとって雪は、現代文明に対する危機感の象徴でも
あるんだ」
野外彫刻の仕事が多い。東京都知事公邸、滋賀県草津市の琵琶湖突堤など全国各地に作
品を設置してきた。「縄文土器のように、文明の記録を後世へ残したい。それが芸術家の
務めだから」
「十字路に信号機がある国よりも、人間が十字路の真中で交通整理している国の方が、
事故は少ないね。文明と芸術家の関係も、これに似ている」。旅の経験から、面白い考え
を披露する。
「芸術というのは非生産的な営みで、ふだんは文明のシステムから外されている。でも、
文明の岐路で信号機が狂った時、交通整理をするのが芸術家なんだ。作品を通じて暴走車
に警笛を吹き、身一つで歩む人間を守る…」
交通整理係は、どこへ行けば何があるのかを、知っていなくてはならない。
「裏を返せば、自分が今どこにいるのか、どこから来たのかを知る必要があるというこ
と。僕が故郷の記憶を造形しているのも、このためだと思う。彫刻それ自体は、目的じゃ
ない。僕が芸術に挑むのは、自分の位置や起源を知りたいからなんだ」
[みさわ・けんじ氏]1945(昭和20)年上水内郡信州新町生まれ。68年多摩美術大絵画科
(油絵専攻)卒。84-85年文化庁派遣芸術家在外研修員として米国に滞在、彫刻家イサム
・ノグチらに学ぶ。69年彫刻の森美術館第1回国際彫刻展コンクール賞、83年第16回現
代日本美術展東京都美術館賞、83年第3回ヘンリー・ムーア大賞展美ヶ原高原美術館賞
など受賞多数。静岡県熱海市在住。
掲載図版:《雪環》1996年 木、金、大理石 37×105×115cm
《うさぎ》1993-96年 銅、青銅、大理石 35.5×56.7×19cmが3点、18×27×7cmが1点
びじゅつ創 そこに自分がいた、記憶 彫刻家三澤憲司;信濃毎日新聞1998年(平成10年)
5月7日(木曜日)特集12